巻次 - 592頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 もろもろの如来とひとしというなり。如来とひとしというは、信心をえて、ことによろこぶひとは、釈尊のみことには、「見敬得大慶 則我善親友」(大経)とときたまえり。また、弥陀の第十七の願には、「十方世界無量諸仏 不悉咨嗟称我名者 不取正覚」とちかいたまえり。願成就の文には、よろずの仏にほめられ、よろこびたまうとみえたり。すこしもうたがうべきにあらず。これは如来とひとしという文どもをあらわししるすなり。十月十五日真仏御坊 親鸞(七) 七の㋑一 或人云 往生の業因は一念発起信心のとき、無碍の心光に摂護せられまいらせ候いぬれば同一なり。このゆえに不審なし。このゆえに、はじめてまた信不信を論じたずね申すべきにあらずとなり。このゆえに他力なり。義なきがなかの義となり。ただ、無明なること、おおわるる煩悩ばかりとなり。恐々謹言十一月一日 専信上七の㋺ おおせ候うところの往生の業因は、真実信心をうるとき摂取不捨にあずかるとおもえば、かならずかならず如来の誓願に住すと悲願にみえたり。「設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚」とちかい給 紙面画像を印刷 前のページ p592 次のページ 第二版p724・725へ このページの先頭に戻る