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もろもろの如来とひとしというなり。如来とひとしというは、信心をえて、ことによろこぶひとは、釈尊のみことには、「見敬得大慶 則我善親友」(大経)とときたまえり。また、弥陀の第十七の願には、「十方世界無量諸仏 不悉咨嗟称我名者 不取正覚」とちかいたまえり。願成就の文には、よろずの仏にほめられ、よろこびたまうとみえたり。すこしもうたがうべきにあらず。これは如来とひとしという文どもをあらわししるすなり。

十月十五日

真仏御坊     親鸞
(七) 七の㋑

一 或人云
 往生の業因は一念発起信心のとき、無碍の心光に摂護せられまいらせ候いぬれば同一なり。このゆえに不審なし。このゆえに、はじめてまた信不信を論じたずね申すべきにあらずとなり。このゆえに他力なり。義なきがなかの義となり。ただ、無明なること、おおわるる煩悩ばかりとなり。恐々謹言

十一月一日     専信上

七の㋺
 おおせ候うところの往生の業因は、真実信心をうるとき摂取不捨にあずかるとおもえば、かならずかならず如来の誓願に住すと悲願にみえたり。「設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚」とちかい給