巻次
-
557頁
表示設定
ブックマーク
表示設定
文字サイズ
書体
  • ゴシック
  • 明朝
カラー
テキスト情報
本文
画像情報
画像情報
本文

るという、すくなしという。一心かけぬればうまれずというなり。一心かくるというは、信心のかくるなり。信心かくというは、本願真実の三信のかくるなり。『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうるを、一心をうるとはもうすなり。このゆえに『大経』の三信心をえざるをば、一心かくるともうすなり。この一心かけぬれば、真の報土にうまれずというなり。『観経』の三心は、定散二機の心なり。定散二善を回して、『大経』の三信をえんとねがう方便の深心と至誠心としるべし。真実の三信心をえざれば「即不得生」というなり。「即」は、すなわちという。「不得生」というは、うまるることをえずというなり。三信かけぬるゆえに、すなわち報土にうまれずとなり。雑行雑修して定機散機の人、他力の信心かけたるゆえに、多生曠劫をへて、他力の一心をえてのちにうまるべきゆえに、すなわちうまれずというなり。もし胎生辺地にうまれても、五百歳をへ、あるいは億千万衆の中に、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。三信をえんことを、よくよくこころえねがうべきなり。
 「不得外現 賢善精進之相」(散善義)というは、あらわに、かしこきすがた、善人のかたちを、あらわすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれとなり。そのゆえは、内懐虚仮なればなり。内は、うちという。こころのうちに煩悩を具せるゆえに、虚なり、仮なり。虚は、むなしくして実ならぬなり。仮は、かりにして、真ならぬなり。このこころは、かみにあらわせり。この信心は、まことの浄土のたねとなり、みとなるべしと、いつわらず、へつらわず、実報土のたねとなる信心なり。しかればわれらは善人にもあらず、賢人にもあらず。賢人というは、かしこくよきひとなり。精進なるこころもなし。懈怠のこころのみにして、