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さきとせり。「廃」というは、捨なりと釈す。聖道門の此土の入聖得果・己身の弥陀・唯心の浄土等の凡夫不堪の自力の修道をすてよとなり。「立」というは、すなわち「弥陀他力の信をもって凡夫の信とし、弥陀他力の行をもって凡夫の行とし、弥陀他力の作業をもって凡夫報土に往生する正業として、此の穢界をすててかの浄刹に往生せよ」としつらいたまうをもって、真宗とす。しかるに、風聞の邪義のごとくんば、廃立の一途をすてて、此土・他土をわけず浄・穢を分別せず、此土をもって浄土と称し、凡形の知識をもってかたじけなく三十二相の仏体とさだむらんこと、浄土の一門においてかかる所談あるべしともおぼえず。下根愚鈍の短慮おおよそ迷惑するところなり。己身の弥陀・唯心の浄土と談ずる聖道の宗義に差別せるところいずくぞや、もっとも荒涼といいつべし。ほのかにきく、かくのごとくの所談の言語をまじうるを「夜中の法門」と号すと云々 またきく、祖師の御解釈『教行証』にのせらるるところの「顕彰隠密の義」というも、「隠密」の名言はすなわちこの一途を顕露にすべからざるを「隠密」と釈したまえりと云々 これもってのほかの僻韻か。かの「顕彰隠密」の名言は、わたくしなき御釈なり。それはかくのごとくこばみたる邪義にあらず、子細多重あり。ことしげきによりて、いまの要須にあらざるあいだ、これを略す。善知識において、本尊のおもいをなすべき条、渇仰の至りにおいてはその理しかるべしといえども、それは仏智を次第相承しまします願力の信心、仏智よりもよおされて、仏智に帰属するところの一味なるを仰崇の分にてこそあれ、仏身・仏智を本体とおかずして、ただちに凡形の知識をおさえて「如来の色相と眼見せよ」とすすむらんこと、聖教の指説をはなれ、祖師の口伝にそむけり。本尊をはなれて、いずくのほどより知識は出現せるぞや。荒涼なり、髣髴なり。