巻次
943頁
表示設定
ブックマーク
表示設定
文字サイズ
書体
  • ゴシック
  • 明朝
カラー
テキスト情報
本文
画像情報
画像情報
本文

安心決定鈔 本

 浄土真宗の行者は、まず本願のおこりを存知すべきなり。弘誓は四十八なれども、第十八の願を本意とす。余の四十七は、この願を信ぜしめんがためなり。この願を『礼讃』に釈したまうに「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」といえり。この文のこころは、十方衆生、願行成就して往生せば、われも仏にならん、衆生往生せずは、われ正覚をとらじ、となり。かるがゆえに、仏の正覚は、われらが往生するとせざるとによるべきなり。しかるに、十方衆生いまだ往生せざるさきに、正覚を成ずることは、こころえがたきことなり。しかれども、仏は衆生にかわりて、願と行とを円満して、われらが往生を、すでに、したためたまうなり。十方衆生の願行円満して、往生成就せしとき、機法一体の南無阿弥陀仏の正覚を、成じたまいしなり。かるがゆえに、仏の正覚のほかは、凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚をなるゆえに、仏の正覚なりしと、われらが往生の成就せしとは、同時なり。仏のかたよりは、往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること、不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかわりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかもそうることはなきなり。たとえば、日いずれば、刹那に、十方のやみ、ことごとくはれ、月いずれば、法界の水、同時にかげをうつすがごとし。月はいでて、かげを水にやどす。日は