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 問うて曰わく、凡夫人の未だ無上道心を発せざるあり。あるいは発心する者あり、未だ歓喜地を得ざらん。この人、諸仏および諸仏の大法を念ぜんと、必定の菩薩および希有の行を念じて、また歓喜を得ん、と。初地を得ん菩薩の歓喜と、この人と、何の差別あるや。答えて曰わく、菩薩初地を得ば、その心歓喜多し。諸仏無量の徳、我また定んで当に得べし。初地を得ん必定の菩薩は、諸仏を念ずるに無量の功徳有す。我当に必ずかくのごときの事を得べし。何をもってのゆえに。我すでにこの初地を得、必定の中に入れり。余はこの心あることなけん。このゆえに初地の菩薩、多く歓喜を生ず。余はしからず。何をもってのゆえに。余は諸仏を念ずといえども、この念を作すことあたわず、我必ず当に作仏すべしと。たとえば、転輪聖子の、転輪王の家に生まれて、転輪王の相を成就して、過去の転輪王の功徳尊貴を念じて、この念を作さん、「我今またこの相あり、また当にこの豪富尊貴を得べし。」心大きに歓喜せん、もし転輪王の相なければ、かくのごときの喜びなからんがごとし。必定の菩薩、もし諸仏および諸仏の大功徳・威儀・尊貴を念ずれば「我この相あり、必ず当に作仏すべし。」すなわち大きに歓喜せん。余はこの事あることなけん。定心は深く仏法に入りて心動ずべからず。
 (浄地品)また云わく、「信力増上」はいかん。聞見するところありて、必受して疑いなければ「増上」と名づく、「殊勝」と名づくと。問うて曰わく、二種の増上あり、一つには多、二つには勝なり。今の説なにものぞ、と。答えて曰わく、この中の二事ともに説かん。菩薩初地に入ればもろもろの功徳の味わいを得るがゆえに、信力転増す。この信力をもって諸仏の功徳無量深妙なるを籌量して、よく信受す。このゆえにこの心また多なり、また勝なり。深く大悲を行ずれば、衆生を愍念すること骨体に徹入するがゆえに、名づけて「深」と