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行せざると、名義と相応せざるに由るがゆえなり。いかんが不如実修行と名義不相応とする。いわく如来はこれ実相の身なり、これ物の為の身なりと知らざるなり。また三種の不相応あり。一つには信心淳からず、存せるがごとし、亡ぜるがごときのゆえに。二つには信心一ならず、決定なきがゆえに。三つには信心相続せず、余念間つるがゆえに。この三句展転して相成ず。信心淳からざるをもってのゆえに決定なし、決定なきがゆえに念相続せず、また念相続せざるがゆえに決定の信を得ず、決定の信を得ざるがゆえに心淳からざるべし。これと相違せるを「如実修行相応」と名づく。このゆえに論主建めに「我一心」と言えり、と。已上
 『讃阿弥陀仏偈』に曰わく、 曇鸞和尚造なり あらゆるもの阿弥陀の徳号を聞きて、信心歓喜して聞くところを慶ばんこと、いまし一念におよぶまでせん。至心の者回向したまえり。生まれんと願ずれば、みな往くことを得しむ。ただ五逆と謗正法とをば除く。かるがゆえに我頂礼して往生を願ず、と。已上
 光明寺の『観経義』(定善義)に云わく、「如意」と言うは二種あり。一つには衆生の意のごとし、かの心念に随いてみなこれを度すべし。二つには弥陀の意のごとし、五眼円に照らし六通自在にして、機の度すべき者を観そなわして、一念の中に前なく後なく、身心等しく赴き、三輪開悟して、おのおの益すること同じからざるなり、と。已上
 (序分義)また云わく、この五濁・五苦等は、六道に通じて受けて、未だ無き者はあらず、常にこれに逼悩す。もしこの苦を受けざる者は、すなわち凡数の摂にあらざるなり、と。抄出
 (散善義)また云わく、「何等為三」より下「必生彼国」に至るまで已来は、正しく三心を弁定してもって正