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如来の名を称するなり。「如彼如来光明智相」は、仏の光明は是れ智慧の相なり。此の光明、十方世界を照らすに障碍有ること無し。能く十方衆生の無明の黒闇を除く。日・月・珠光の、但、室穴の中の闇を破するが如きには非ざるなり。
 「如彼名義欲如実修行相応」は、彼の無碍光如来の名号、能く衆生の一切の無明を破す、能く衆生の一切の志願を満てたまう。然るに称名憶念有れども、無明、由存して所願を満てざるは何んとならば、如実修行せざると、名義と相応せざるに由るが故なり。云何が不如実修行と名義不相応とする。謂わく、如来は是れ実相の身なり、是れ物の為の身なりと知らざるなり。又三種の不相応有り。一には信心、淳からず〔「淳」の字 常倫の反。又音純なり。又厚なり。朴なり。「朴」の字、音卜なり。薬名なり。「諄」の字 至なり。誠懇の貌なり。上の字に同じ。〕。存ぜるが若し、亡ぜるが若きの故に。二には信心、一ならず。決定無きが故に。三には信心、相続せず。余念間つるが故に。此の三句、展転して相成す。信心、淳からざるを以ての故に決定無し。決定無きが故に、念、相続せず。亦、念、相続せざるが故に決定の信を得ず。決定の信を得ざるが故に、心、淳からざるべし。此れと相違せるを「如実修行相応」と名づく。是の故に論主、建めに「我一心」と言えり」と。已上
 『讃阿弥陀仏偈』に曰わく 曇鸞和尚造なり、「諸もの阿弥陀の徳号を聞きて、信心歓喜して聞く所を慶ばんこと乃し一念に曁ぶまでせん。至心の者回向したまえり。生まれんと願ずれば、皆、往を得しむ。唯、五逆と謗正法とをば除く。故に我頂礼して往生を願ず」と。已上