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 光明寺(善導)の『観経義』(定善義)に云わく、「「如意」(観経)と言うは二種有り。一には衆生の意の如し。彼の心念に随いて、皆、之を度すべし。二には弥陀の意の如し。五眼円かに照らし、六通自在にして、機の度すべき者を観そなわして、一念の中に前無く後無く、身心等しく赴き、三輪開悟して、各おの益すること同じからざるなり」と。已上
 又云わく(序分義)、「此の五濁・五苦等は、六道に通じて受けて、未だ無き者は有らず。常に之に逼悩す。若し此の苦を受けざる者は、即ち凡数の摂に非ざるなり」と。抄出
 又云わく(散善義)、「「何等為三」(観経)より下「必生彼国」(同)に至るまで已来は、正しく三心を弁定して、以て正因とすることを明かす。即ち其れ二有り。一には、世尊、機に随いて益を顕すこと、意、密にして知り難し。仏自ら問うて自ら徴したまうに非ずは、解を得るに由無きを明かす。二に、如来、還りて自ら前の三心の数を答えたまうことを明かす。
 『経』(観経)に云わく、「一者至誠心。」「至」は真なり、「誠」は実なり。一切衆生の身口意業の所修の解行、必ず真実心の中に作したまえるを須いんことを明かさんと欲う。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ。内に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽姧詐百端にして悪性侵め難し。事、蛇