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 (観経)また言わく、もし念仏する者は、当に知るべし。この人はこれ人中の分陀利華なり、と。已上
 『安楽集』に云わく、諸部の大乗に拠って説聴の方軌を明かさば、『大集経』に云わく、「説法の者においては、医王の想を作せ、抜苦の想を作せ。所説の法をば、甘露の想を作せ、醍醐の想を作せ。それ聴法の者をば、増長勝解の想を作せ、愈病の想を作せ。もしよくかくのごとき説者・聴者は、みな仏法を紹隆するに堪えたり、常に仏前に生ぜん」と。乃至 『涅槃経』に依るに、「仏の言わく、もし人ただよく心を至して、常に念仏三昧を修すれば、十方諸仏恒にこの人を見そなわすこと、現に前に在すがごとし。」このゆえに『涅槃経』に云わく、「仏、迦葉菩薩に告げたまわく、もし善男子・善女人ありて、常によく心を至し専ら念仏する者は、もしは山林にもあれ、もしは聚落にもあれ、もしは昼・もしは夜、もしは座・もしは臥、諸仏世尊、常にこの人を見そなわすこと、目の前に現ぜるがごとし、恒にこの人のためにして受施を作さん」と。乃至 『大智度論』に依るに、三番の解釈あり。第一には、仏はこれ無上法王なり、菩薩は法臣とす。尊ぶところ、重くするところ、ただ仏・世尊なり。このゆえに当に常に念仏すべきなり。第二に、もろもろの菩薩ありて、自ら云わく、「我曠劫より已来、世尊我等が法身・智身・大慈悲身を長養することを蒙ることを得たりき。禅定・智慧・無量の行願、仏に由って成ずることを得たり。報恩のためのゆえに、常に仏に近ずかんことを願ず。また大臣の、王の恩寵を蒙りて、常にその王を念うがごとし。」第三に、もろもろの菩薩ありてまたこの言を作さく、「我因地にして悪知識に遇いて、波若を誹謗して悪道に堕しき。無量劫を径て余行を修すといえども、未だ出ずることあたわず。後に一時において善知識の辺に依りしに、我を教えて念仏三昧を行ぜん。その時に