巻次 証 283頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 言えり。これいかんぞ不思議なるや。凡夫人の煩悩成就せるありて、またかの浄土に生まるることを得れば、三界の繫業畢竟じて牽かず。すなわちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得、いずくんぞ思議すべきや。已上抄要 『安楽集』に云わく、しかるに二仏の神力、また斉等なるべし。ただ釈迦如来己が能を申べずして、故にかの長ぜるを顕したまうことは、一切衆生をして斉しく帰せざることなからしめんと欲してなり。このゆえに釈迦、処処に嘆帰せしめたまえり。須らくこの意を知るべしとなり。このゆえに曇鸞法師の正意、西に帰るがゆえに、『大経』に傍えて奉讃して曰わく、「安楽の声聞・菩薩衆・人天、智慧ことごとく洞達せり。身相荘厳殊異なし。ただ他方に順ずるがゆえに名を列ぬ。顔容端政にして比ぶべきなし。精微妙軀にして人天にあらず、虚無の身、無極の体なり。このゆえに平等力を頂礼したてまつる」(讃弥陀偈)と。已上 光明寺の『疏』(玄義分)に云わく、「弘願」と言うは、『大経』の説のごとし。一切善悪の凡夫、生を得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて、増上縁とせざるはなしとなり。また仏の密意弘深なれば、教門をして暁りがたし。三賢十聖測りて闚うところにあらず。況や我信外の軽毛なり。あえて旨趣を知らんや。仰ぎて惟みれば、釈迦はこの方にして発遣し、弥陀はすなわちかの国より来迎す。彼に喚ばい此に遣わす。あに去かざるべけんや。ただねんごろに法に奉えて、畢命を期として、この穢身を捨てて、すなわちかの法性の常楽を証すべし、と。 (定善義)また云わく、西方寂静無為の楽には、畢竟逍遙して、有無を離れたり。大悲、心に薫じて法界に遊ぶ。分身して物を利すること、等しくして殊なることなし。あるいは神通を現じて法を説き、あるいは相 紙面画像を印刷 前のページ p283 次のページ 第二版p322~324へ このページの先頭に戻る