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「この清浄に二種あり、知るべし」(論)といえり。上の転入句の中に、一法に通じて清浄に入る。清浄に通じて法身に入る。今将に清浄を別ちて二種を出だすがゆえなり。かるがゆえに「知るべし」と言えり。「何等か二種。一つには器世間清浄、二つには衆生世間清浄なり。器世間清浄とは、さきに説くがごときの十七種の荘厳仏土功徳成就、これを器世間清浄と名づく。衆生世間清浄とは、さきに説くがごときの八種の荘厳仏功徳成就と、四種の荘厳菩薩功徳成就と、これを衆生世間清浄と名づく。かくのごときの一法句に二種の清浄の義を摂すと、知るべし」とのたまえり。それ衆生は別報の体とす。国土は共報の用とす。体用一ならず。このゆえに、知るべし。しかるに諸法は心をして無余の境界を成ず。衆生および器、また異にして一ならざることを得ず。すなわち義をして分かつに異ならず。同じく清浄なり。器は用なり。謂わくかの浄土は、これかの清浄の衆生の受用するところなるがゆえに、名づけて器とす。浄食に不浄の器を用うれば、器不浄なるをもってのゆえに、食また不浄なり。不浄の食に浄器を用うれば、食不浄なるがゆえに、器また不浄なるがごとし。かならず二ともに潔くして、いまし浄と称することを得しむ。ここをもって一の清浄の名、必ず二種を摂す。問うて曰わく、衆生清浄と言えるは、すなわちこれ仏と菩薩となり。かのもろもろの人天、この清浄の数に入ることを得んや、いなや。答えて曰わく、清浄と名づくることを得るは、実の清浄にあらず。譬えば出家の聖人は、煩悩の賊を殺すをもってのゆえに、名づけて比丘とす、凡夫の出家の者をまた比丘と名づくるがごとし。また灌頂王子初生の時、三十二相を具して、すなわち七宝のために属せらる。未だ転輪王の事を為すことあたわずといえども、また転輪王と名づくるがごとし。それ必ず転輪王たるべきをもってのゆえに。かのもろもろ