巻次 証 333頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 を待つこと無きなり。是に非ず非に非ず、百非の喩えざる所なり。是の故に「清浄句」と言えり。「清浄句」は、謂わく、真実の智慧無為法身なり。 「此の清浄に二種有り。知る応し」(論)といえり。上の転入句の中に、一法に通じて清浄に入る。清浄に通じて法身に入る。今将に清浄を別ちて二種を出だすが故なり。故に「知る応し」と言えり。 「何等か二種。一には器世間清浄、二には衆生世間清浄なり。器世間清浄は、向に説くが如きの十七種の荘厳仏土功徳成就、是れを「器世間清浄」と名づく。衆生世間清浄は、向に説くが如きの八種の荘厳仏功徳成就と四種の荘厳菩薩功徳成就と、是れを「衆生世間清浄」と名づく。是くの如きの一法句に、二種の清浄の義を摂すと知る応し」(論)とのたまえり。夫れ衆生は別報の体とす、国土は共報の用とす。体・用、一ならず。所以に知る応し。然るに諸法は心をして無余の境界を成ず。衆生及び器、復た異にして一ならざることを得ず。則ち義をして分かつに異ならず。同じく清浄なり。「器」は用なり。謂わく、彼の浄土は、是れ彼の清浄の衆生の受用する所なるが故に、名づけて「器」とす。浄食に不浄の器を用いれば、器不浄なるを以ての故に食亦不浄なり。不浄の食に浄器を用いれば、食不浄なるが故に器亦不浄なるが如し。要ず 紙面画像を印刷 前のページ p333 次のページ 初版p290・291へ このページの先頭に戻る