巻次 証 334頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 二倶に潔して、乃し「浄」と称することを得しむ。是を以て一の「清浄」の名、必ず二種を摂す。 問うて曰わく、「衆生清浄」と言えるは、則ち是れ仏と菩薩となり。彼の諸の人天、此の清浄の数に入ることを得んや不や。 答えて曰わく、「清浄」と名づくることを得るは、実の清浄に非ず。譬えば、出家の聖人は煩悩の賊を殺すを以ての故に、名づけて「比丘」とす。凡夫の出家の者を亦「比丘」と名づくるが如し。又、灌頂王子初生の時、三十二相を具して即ち七宝の為に属せらる。未だ転輪王の事を為すこと能わずと雖も、亦「転輪王」と名づくるが如し。其れ必ず転輪王たるべきを以ての故に。彼の諸の人天も亦復是くの如し。皆、大乗正定の聚に入りて、畢竟じて当に清浄法身を得べし。当に得べきを以ての故に、「清浄」と名づくることを得るなりと。 善巧摂化とは、「是くの如きの菩薩は、奢摩他・毘婆舎那、広略修行成就して柔軟心なり」(論)とのたまえり。「柔軟心」は、謂わく、広略の止観、相順じ修行して不二の心を成ぜるなり。譬えば水を以て影を取るに、清と静と相資けて成就するが如しとなり。 「実の如く広略の諸法を知る」(論)とのたまえり。「如実知」とは、実相の如くして知るなり。広の中の二十九句、略の中の一句、実相に非ざること莫きなり。 「是くの如き巧方便回向を成就したまえり」(論)とのたまえり。「是くの如き」というは、前後の広略、皆、実相なるが如きなり。実相を知るを以ての故に、則ち三界の衆生の虚妄の相を知る 紙面画像を印刷 前のページ p334 次のページ 初版p291・292へ このページの先頭に戻る