巻次 真仏土 312頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 れば、唱えて言わく、「如来定んで仏身はこれ有為の法なりと説かん」と。法身はすなわちこれ常楽我浄なり。永く一切生老病死、非白非黒、非長非短、非此非彼、非学非無学を離れたまえれば、もし仏の出世、および不出世に常に動ぜずして変易あることなけん。善男子、我がもろもろの弟子この説を聞き已りて、我が意を解らざれば、唱えて言わく、「如来定んで仏身はこれ無為の法なりと説きたまえり」と。 また言わく、我が所説の十二部経のごとし、あるいは随自意説、あるいは随他意説、あるいは随自他意説なり。乃至 善男子、我が所説のごとき、十住の菩薩少しき仏性を見る、これを随他意説と名づく。何をもってのゆえに少見と名づくるや、と。十住の菩薩は首楞厳等の三昧・三千の法門を得たり。このゆえに声聞自ら知りて当に阿耨多羅三藐三菩提を得べくとも、一切衆生定んで阿耨多羅三藐三菩提を得んことを見ず。このゆえに我「十住の菩薩、少分仏性を見る」と説くなり。善男子、常に一切衆生悉有仏性と宣説する、これを随自意説と名づく。一切衆生不断不滅にして、乃至阿耨多羅三藐三菩提を得る、これを随自意説と名づく。一切衆生はことごとく仏性あれども、煩悩覆えるがゆえに見ることを得ることあたわずと。我が説、かくのごとし。汝が説、またしかなりと。これを随自他意説と名づく。善男子、如来ある時は一法のためのゆえに無量の法を説く、と。抄出 (師子吼品)また言わく、一切覚者を名づけて仏性とす。十住の菩薩は名づけて一切覚とすることを得ざるがゆえに、このゆえに見るといえども明了ならず。善男子、見に二種あり。一つには眼見、二つには聞見なり。諸仏世尊は眼に仏性を見そなわす、掌の中において阿摩勒菓を観ずるがごとし。十住の菩薩、仏性を聞見す 紙面画像を印刷 前のページ p312 次のページ 第二版p360~362へ このページの先頭に戻る