巻次 化本 367頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 において次第に涅槃に入ることを得ん。遺余あることなけん。何をもってのゆえに。かくのごとき一切沙門の中に、乃至一たび仏の名を称し、一たび信を生ぜんものの所作の功徳、終に虚設ならじ。我仏智をもって法界を測知するがゆえなり」と云云。乃至 これらの諸経に、みな年代を指して、将来末世の名字比丘を世の尊師とすと。もし正法の時の制文をもって、末法世の名字僧を制せば、教・機あい乖き、人・法合せず。これに由って『律』に云わく、「非制を制するは、すなわち三明を断ず。記説するところこれ罪あり」と。この上に経を引きて配当し已訖りぬ。 後に教を挙げて比例せば、末法法爾として正法毀壊し、三業記なし、四儀乖くことあらん。しばらく『像法決疑経』に云わく、乃至 また『遺教経』に云わく、乃至 また『法行経』に云わく、乃至 『鹿子母経』に云わく、乃至 また『仁王経』に云うがごとしと。乃至 已上略抄 紙面画像を印刷 前のページ p367 次のページ 第二版p432・433へ このページの先頭に戻る