巻次
化本
432頁
表示設定
ブックマーク
表示設定
文字サイズ
書体
  • ゴシック
  • 明朝
カラー
テキスト情報
本文
画像情報
画像情報
本文

 又云わく(大集経)、「若し破戒を打罵し、身に袈裟を着たるを知ること無からん罪は、万億の仏身より血を出だすに同じからんと。若し衆生有りて、我が法の為に剃除鬚髪し袈裟を被服せんは、設い戒を持たずとも、彼等は悉く已に涅槃の印の為に印せらるるなり。」乃至
 『大悲経』に云わく、「仏、阿難に告げたまわく、「将来世に於いて、法、滅尽せんと欲せん時、当に比丘・比丘尼有りて、我が法の中に於いて出家を得たらんもの、己が手に児の臂を牽きて共に遊行して、彼の酒家より酒家に至らん。我が法の中に於いて非梵行を作さん。彼等、酒の因縁たりと雖も、此の賢劫の中に於いて、当に千仏有して興出したまわんに、我が弟子と為るべしと。次に後に、弥勒、当に我が所を補ぐべし。乃至最後盧至如来まで、是くの如き次第に、汝、当に知るべし。阿難。我が法の中に於いて、但、性は是れ沙門の行にして自ら「沙門」と称せん。形は沙門に似て、尚しく袈裟を被着すること有らしめんは、賢劫に於いて弥勒を首として乃至盧至如来まで、彼の諸の沙門、是くの如きの仏の所にして無余涅槃に於いて次第に涅槃に入ることを得ん。遺余有ること無けん。何を以ての故に。如来一切沙門の中に、乃至一たび仏の名を称し、一たび信を生ぜん者の所作の功徳、終に虚設ならじ。我、仏智を以て法界を測知するが故なり」」と云云。乃至
 此れ等の諸経に、皆、年代を指して将来末世の名字比丘を世の尊師とすと。若し正法時の制文を以て末法世の名字僧を制せば、教・機相乖き、人・法合せず。此れに由りて『律』(四分律)に云