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れば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。この本願のようは、『唯信抄』によくよくみえたり。唯信ともうすは、すなわちこの真実信楽をひとすじにとるこころをもうすなり。「唯除五逆 誹謗正法」というは、唯除というは、ただのぞくということばなり。五逆のつみびとをきらい、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつのつみのおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべし、としらせんとなり。
 また言わく、「其仏本願力 聞名欲往生 皆悉到彼国 自致不退転」(大経)と。
 「其仏本願力」というは、弥陀の本願力ともうすなり。「聞名欲往生」というは、聞というは、如来のちかいの御なを信ずともうすなり。欲往生というは、安楽浄刹にうまれんとおもえとなり。「皆悉到彼国」というは、御ちかいのみなを信じてうまれんとおもう人はみなもれず、かの浄土にいたるともうす御ことなり。「自致不退転」というは、自は、おのずからという。おのずからというは、衆生のはからいにあらず、しからしめて不退のくらいにいたらしむとなり。自然ということばなり。致というは、いたるという、むねとすという。如来の本願のみなを信ずる人は、自然に不退のくらいにいたらしむるをむねとすべしとおもえとなり。不退というは、仏にかならずなるべきみとさだまるくらいなり。これすなわち正定聚のくらいにいたるをむねとすべしと、ときたまえる御のりなり。