巻次 - 541頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 ず、余の仏を念ぜず。専修は、本願のみなを、ふたごころなく、もっぱら修するなり。修は、こころのさだまらぬをつくろいなおし、おこなうなり。専は、もっぱらという、一というなり。もっぱらというは、余善・他仏にうつるこころなきをいうなり。「行住座臥不問時節久近」というは、「行」は、あるくなり。「住」は、たたるなり。「座」は、いるなり。「臥」は、ふすなり。「不問」は、とわずというなり。「時」は、ときなり、十二時なり。「節」は、ときなり、十二月、四季なり。「久」は、ひさしき、「近」は、ちかしとなり。ときをえらばざれば、不浄のときをへだてず、よろずのことをきらわざれば、不問というなり。「是名正定之業 順彼仏願故」というは、弘誓を信ずるを報土の業因とさだまるを、正定の業となづくという。仏の願にしたがうがゆえにと、もうす文なり。 一念多念のあらそいをなすひとをば、異学別解のひとともうすなり。異学というは、聖道外道におもむきて、余行を修し、余仏を念ず、吉日良辰をえらび、占相祭祀をこのむものなり。これは外道なり。これらはひとえに自力をたのむものなり。別解は、念仏をしながら、他力をたのまぬなり。別というは、ひとつなることをふたつにわかちなすことばなり。解は、さとるという、とくということばなり。念仏をしながら自力にさとりなすなり。かるがゆえに、別解というなり。また、助業をこのむもの、これすなわち自力をはげむひとなり。自力というは、わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。 「上尽一形」というは、「上」は、かみという、すすむという、のぼるという、いのちおわらんまでという。 紙面画像を印刷 前のページ p541 次のページ 第二版p662~664へ このページの先頭に戻る