巻次
-
662頁
表示設定
ブックマーク
表示設定
文字サイズ
書体
  • ゴシック
  • 明朝
カラー
テキスト情報
本文
画像情報
画像情報
本文

し、一念にかぎらずということを。いわんや「乃至」とちかいたまえり、称名の遍数さだまらずということを。この誓願は、すなわち易往易行のみちをあらわし、大慈大悲のきわまりなきことをしめしたまうなり。
 『阿弥陀経』に「一日乃至七日、名号をとなうべし」と、釈迦如来ときおきたまえる御のりなり。この『経』は、無問自説経ともうす。この『経』をときたまいしに、如来にといたてまつる人もなし。これすなわち釈尊出世の本懐をあらわさんとおぼしめすゆえに、無問自説ともうすなり。弥陀選択の本願、十方諸仏の証誠、諸仏 出世の素懐、恒沙如来の護念は、諸仏 咨嗟の御ちかいをあらわさんとなり。諸仏称名の誓願、『大経』にのたまわく、「設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚」と願じたまえり。この悲願のこころは、「たといわれ仏をえたらんに、十方世界無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、仏にならじ」とちかいたまえるなり。「咨嗟」ともうすは、よろずの仏にほめられたてまつるともうす御ことなり。
 「一心専念」(散善義)というは、「一心」は、金剛の信心なり。「専念」は、一向専修なり。一向は、余の善にうつらず、余の仏を念ぜず。専修は、本願のみなを、ふたごころなく、もっぱら修するなり。修は、こころのさだまらぬをつくろいなおし、おこなうなり。専は、もっぱらという、一というなり。もっぱらというは、余善・他仏にうつるこころなきをいうなり。「行住座臥不問時節久近」(同)というは、「行」は、あるくなり。「住」は、たたるなり。「座」は、いるなり。「臥」は、ふすな