巻次 - 547頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 唯信鈔文意 「唯信抄」というは、「唯」は、ただこのことひとつという。ふたつならぶことをきらうことばなり。また「唯」は、ひとりというこころなり。「信」は、うたがいなきこころなり。すなわちこれ真実の信心なり。虚仮はなれたるこころなり。「虚」は、むなしという。「仮」は、かりなるということなり。「虚」は、実ならぬをいう。「仮」は、真ならぬをいうなり。本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」という。「鈔」は、すぐれたることをぬきいだし、あつむることばなり。このゆえに「唯信鈔」というなり。また「唯信」はこれ、この他力の信心のほかに余のことならわずとなり。すなわち本弘誓願なるがゆえなればなり。 「如来尊号甚分明 十方世界普流行 但有称名皆得往 観音勢至自来迎」(五会法事讃)。「如来尊号甚分明」、このこころは、「如来」ともうすは、無碍光如来なり。「尊号」ともうすは、南無阿弥陀仏なり。「尊」は、とうとくすぐれたりとなり。「号」は、仏になりたもうてのちの御なをもうす。「名」は、いまだ仏になりたまわぬときの御なをもうすなり。この如来の尊号は、不可称・不可説・不可思議にましまして、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまう、大慈大悲のちかいの御ななり。この仏の御なは、よろずの如来の名号にすぐれたまえり。これすなわち誓願なるがゆえなり。「甚分明」というは、「甚」は、はなはだという、すぐれたりというこころなり。「分」は、わかつという、よろずの衆生ごとにとわかつこころなり。「明」は、あき 紙面画像を印刷 前のページ p547 次のページ 第二版p671・672へ このページの先頭に戻る