巻次 - 548頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 らかなりという、十方一切衆生を、ことごとくたすけみちびきたまうこと、あきらかに、わかちすぐれたまえりとなり。「十方世界普流行」というは、「普」は、あまねく、ひろく、きわなしという。「流行」は、十方微塵世界にあまねくひろまりて、すすめ、行ぜしめたまうなり。しかれば、大小の聖人、善悪の凡夫、みなともに、自力の智慧をもっては、大涅槃にいたることなければ、無碍光仏の御かたちは、智慧のひかりにてましますゆえに、この仏の智願海にすすめいれたまうなり。一切諸仏の智慧をあつめたまえる御かたちなり。光明は智慧なりとしるべしとなり。「但有称名皆得往」というは、「但有」は、ひとえに御なをとなうる人のみ、みな往生すとのたまえるなり。かるがゆえに「称名皆得往」というなり。「観音勢至自来迎」というは、南無阿弥陀仏は智慧の名号なれば、この不可思議光仏の御なを信受して、憶念すれば、観音・勢至は、かならずかげのかたちにそえるがごとくなり。この無碍光仏は、観音とあらわれ、勢志としめす。ある『経』には、観音を宝応声菩薩となづけて、日天子としめす。これは無明の黒闇をはらわしむ。勢至を宝吉祥菩薩となづけて、月天子とあらわる。生死の長夜をてらして、智慧をひらかしめんとなり。「自来迎」というは、「自」は、みずからというなり。弥陀無数の化仏、無数の化観音、化大勢至等の、無量無数の聖衆、みずからつねに、ときをきらわず、ところをへだてず、真実信心をえたるひとにそいたまいて、まもりたまうゆえに、みずからともうすなり。また「自」は、おのずからという。おのずからというは、自然という。自然というは、しからしむという。しからしむというは、行者の、はじめて、ともかくもはからわざるに、過去・今生・未来の一切のつみを転ず。転ずというは、善とかえなすをいうなり。もとめざるに、一切の功徳善根を、仏の 紙面画像を印刷 前のページ p548 次のページ 第二版p672・673へ このページの先頭に戻る