巻次 - 672頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 ち誓願なるがゆえなり。「甚分明」というは、「甚」は、はなはだという。すぐれたりというこころなり。「分」は、わかつという。よろずの衆生ごとにと、わかつこころなり。「明」は、あきらかなりという。十方一切衆生を、ことごとくたすけみちびきたまうこと、あきらかにわかち、すぐれたまえりとなり。 「十方世界普流行」というは、「普」は、あまねく、ひろく、きわなしという。「流行」は、十方微塵世界にあまねくひろまりて、すすめ、行ぜしめたまうなり。しかれば、大小の聖人、善悪の凡夫、みなともに、自力の智慧をもっては、大涅槃にいたることなければ、無碍光仏の御かたちは、智慧のひかりにてましますゆえに、この仏の智願海にすすめいれたまうなり。一切諸仏の智慧をあつめたまえる御かたちなり。光明は智慧なりとしるべしとなり。 「但有称名皆得往」というは、「但有」は、ひとえに御なをとなうる人のみ、みな往生すとのたまえるなり。かるがゆえに「称名皆得往」というなり。 「観音勢至自来迎」というは、南無阿弥陀仏は智慧の名号なれば、この不可思議光仏の御なを信受して、憶念すれば、観音・勢至は、かならずかげのかたちにそえるがごとくなり。この無碍光仏は、観音とあらわれ、勢志としめす。ある『経』には、観音を宝応声菩薩となづけて、日天子としめす。これは無明の黒闇をはらわしむ。勢至を宝吉祥菩薩となづけて、月天子とあらわる。生死の長夜をてらして、智慧をひらかしめんとなり。「自来迎」というは、「自」は、みずからという 紙面画像を印刷 前のページ p672 次のページ 初版p547・548へ このページの先頭に戻る