巻次 - 673頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 なり。弥陀無数の化仏・無数の化観音・化大勢至等の無量無数の聖衆、みずからつねに、ときをきらわず、ところをへだてず、真実信心をえたるひとにそいたまいて、まもりたまうゆえに、みずからともうすなり。また「自」は、おのずからという。おのずからというは、自然という。自然というは、しからしむという。しからしむというは、行者の、はじめて、ともかくもはからわざるに、過去・今生・未来の一切のつみを転ず。転ずというは、善とかえなすをいうなり。もとめざるに、一切の功徳善根を、仏のちかいを信ずる人にえしむるがゆえに、しからしむという。はじめてはからわざれば、自然というなり。誓願真実の信心をえたるひとは、摂取不捨の御ちかいにおさめとりて、まもらせたまうによりて、行人のはからいにあらず、金剛の信心をうるゆえに、憶念自然なるなり。この信心のおこることも、釈迦の慈父、弥陀の悲母の方便によりて、おこるなり。これ自然の利益なりとしるべしとなり。「来迎」というは、「来」は、浄土へきたらしむという。これすなわち若不生者のちかいをあらわす御のりなり。穢土をすてて、真実報土にきたらしむとなり。すなわち他力をあらわす御ことなり。また「来」は、かえるという。かえるというは、願海にいりぬるによりて、かならず大涅槃にいたるを、法性のみやこへかえるともうすなり。法性のみやこというは、法身ともうす如来のさとりを自然にひらくときを、みやこへかえるというなり。これを、真如実相 紙面画像を印刷 前のページ p673 次のページ 初版p548・549へ このページの先頭に戻る