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往生をとぐべきこともちろんなり。一切衆生のありさま、過去の業因まちまちなり。また、死の縁、無量なり。病におかされて死するものあり。剣にあたりて死するものあり。水におぼれて死するものあり。火にやけて死するものあり。乃至、寝死するものあり。酒狂して死するたぐいあり。これみな先世の業因なり。さらにのがるべきにあらず。かくのごときの死期にいたりて、一旦の妄心をおこさんほか、いかでか凡夫のならい、名号称念の正念もおこり、往生浄土の願心もあらんや。平生のとき期するところの約束、もしたがわば、往生ののぞみむなしかるべし。しかれば、平生の一念によりて往生の得否はさだまるものなり。平生のとき不定のおもいに住せば、かなうべからず。平生のとき善知識のことばのしたに、帰命の一念を発得せば、そのときをもって娑婆のおわり、臨終とおもうべし。そもそも南無は帰命、帰命のこころは往生のためなれば、またこれ発願なり。この心あまねく万行万善をして、浄土の業因となせば、また回向の義あり。この能帰の心、所帰の仏智に相応するとき、かの仏の因位の万行・果地の万徳、ことごとくに名号のなかに摂在して、十方衆生の往生の行体となれば、「阿弥陀仏即是其行」(玄義分)と釈したまえり。また殺生罪をつくるとき、地獄の定業をむすぶも、臨終にかさねてつくらざれども、平生の業にひかれて地獄にかならずおつべし。念仏もまたかくのごとし。本願を信じ、名号をとなうれば、その時分にあたりて、かならず往生はさだまるなり、としるべし。」

本云

嘉暦元歳 丙寅 九月五日、拭老眼染禿筆、是偏為利益衆生也。

釈宗昭 五十七