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つぎに、堂をつくらんとき、義をいうべからざるよしの事。

 おおよそ造像・起塔等は、弥陀の本願にあらざる所行なり。これによりて一向専修の行人、これをくわだつべきにあらず。されば、祖師聖人御在世のむかし、ねんごろに一流を面授口決し奉る御門弟達、堂舎を営作するひとなかりき。ただ道場をばすこし人屋に差別あらせて、小棟をあげてつくるべきよしまで御諷諫ありけり。中古よりこのかた、御遺訓にとおざかるひとびとの世となりて、造寺土木のくわだてに及ぶ条、仰せに違する至り、なげきおもうところなり。しかれば、造寺のとき、義をいうべからざるよしの怠状、もとよりあるべからざる題目たるうえは、これにちなんだる誓文、ともにもってしかるべからず。
 すべて、事、数か条に及ぶといえども、違変すべからざる儀において、厳重の起請文を同行にかかしむること、かつは祖師の遺訓にそむき、かつは宿縁の有無をしらず、無法の沙汰ににたり。詮ずるところ、聖人御相伝の正義を存ぜん輩、これらの今案に混じてみだりに邪義にまようべからず。つつしむべし、おそるべし。
10一 優婆塞・優婆夷の形体たりながら、出家のごとく、しいて法名をもちいる、いわれなき事。

本願の文に、すでに「十方衆生」のことばあり。宗家(善導)の御釈に、また「道俗時衆」(玄義分)とらあり。

 釈尊四部の遺弟に、道の二種は比丘・比丘尼、俗の二種は優婆塞・優婆夷なれば、俗の二種も仏弟子のがわにいれる条、勿論なり。就中に、不思議の仏智をたもつ道俗の四種、通途の凡体にこえたるをや。その形体においては、しばらくさしおく。仏、願力の不思議をもって無善造悪の凡夫を摂取不捨したまう時は、道の二種はいみじく、俗の二種が往生の位に不足なるべきにあらず。その進道の階次をいうとき、ただおなじ座席なり。