巻次 本 700頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 問うていわく、「諸流の異義まちまちなるなかに、往生の一道において、あるいは平生業成の義を談じ、あるいは臨終往生ののぞみをかけ、あるいは来迎の義を執し、あるいは不来迎のむねを成ず。いまわが流に談ずるところ、これらの義のなかにはいずれの義ぞや。」こたえていわく、「親鸞聖人の一流においては、平生業成の義にして、臨終往生ののぞみを本とせず、不来迎の談にして、来迎の義を執せず。ただし、平生業成というは、平生に仏法にあう機にとりてのことなり。もし臨終に法にあわば、その機は臨終に往生すべし。平生をいわず、臨終をいわず。ただ信心をうるとき、往生すなわちさだまるとなり。これを、「即得往生」という。これによりて、わが聖人のあつめたまえる『教行証の文類』の第二、「正信偈」の文にいわく、「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃 凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味」といえり。この文のこころは、「よく一念歓喜の信心をおこせば、煩悩を断ぜざる具縛の凡夫ながらすなわち涅槃の分をう、凡夫も聖人も五逆も謗法もひとしくうまる。たとえばもろもろのみずの、うみにいりぬれば、ひとつうしおのあじわいとなるがごとく、善悪さらにへだてなし」というこころなり。ただ一念の信心さだまるとき、竪に貪・瞋・痴・慢の煩悩を断ぜずといえども、横に三界・六道輪回の果報をとずる義あり。しかりといえどもいまだ凡身をすてず、なお果縛の穢体なるほどは、摂取の光明のわが身をてらしたまうをもしらず、化仏・菩薩の、まなこのまえにましますをもみたてまつらず。しかるに一期のいのちすでにつきて、いきたえまなことずるとき、かねて証得しつる往生のことわり、ここにあらわれて、仏・菩薩の相好をも拝し、浄土の荘厳をもみるなり。これさらに臨終のときはじめてうる往生にはあらず。されば、至心・信楽の信心をえながら、なお往生をほかにおきて、 紙面画像を印刷 前のページ p700 次のページ 第二版p852・853へ このページの先頭に戻る