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711頁
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定行によれば、すなわち生を摂するにつきず、ここをもって、如来、方便して三福を顕開して散動の根機に応ず」となり。いうこころは「『観経』のなかに、定善ばかりをとかば、定機ばかりを摂すべきゆえに、散機の往生をすすめんがために散善をとく」となり。これになずらえてこころうるに、散機のなかに二種のしなあり。ひとつには善人、ふたつには悪人なり。その善人は三福を行ずべし。悪人はこれを行ずべからざるがゆえに、それがために十念の往生をとくとこころえられたり。しかるに、この悪人のなかにまた長命・短命の二類あるべし。長命のためには十念をあたう。至極短命の機のためには一念の利生を成就すとなり。これ他力のなかの他力、易行のなかの易行をあらわすなり。一念の信心さだまるとき往生を証得せんこと、これその証なり。
 問うていわく、因願には「十念」ととき、成就の文には「一念」ととくといえども、処々の解釈おおく十念をもって本とす。いわゆる『法事讃』には「上尽一形至十念」といい、『礼讃』には「称我名号 下至十声」といえる釈等これなり。したがいてよのつねの念仏の行者をみるに、みな十念をもって行要とせり。しかるに一念をもってなお「易行のなかの易行なり」ということ、おぼつかなし、いかん。
 こたえていわく、処々の解釈、十念と釈すること、あるいは因願のなかに、十念とときたれば、その文によるとこころえぬれば相違なし。よのつねの行者のもちいるところ、またこの義なるべし。「一念」といえるも、また経釈の明文なり。いわゆる経には『大経』の成就の文、おなじき下輩の文、おなじき流通の文等これなり。成就の文はさきにいだすがごとし。下輩の文というは「乃至一念念於彼仏」といえる文これなり。流通の文