巻次 末 864頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 たり。まったく平生往生の義をとかず、いかん。 こたえていわく、『観経』の下輩は、みなこれ一生造悪の機なるがゆえに、うまれてよりこのかた仏法の名字をきかず、ただ悪業をつくることをのみしれり。しかるに、臨終のとき、はじめて善知識にあいて、一念・十念の往生をとぐといえり。これすなわち、つみふかく悪おもき機、行業いたりてすくなけれども、願力の不思議によりて刹那に往生をとぐ。これあながちに臨終を賞せんとにはあらず、法の不思議をあらわすなり。もしそれ平生に仏法にあわば、平生の念仏、そのちからむなしからずして往生をとぐべきなり。 問うていわく、十八の願について、因位の願には「十念」と願じ、願成就の文には「一念」ととけり。二文の相違いかんがこころうべきや。 こたえていわく、因願のなかに「十念」といえるは、まず三福等の諸善に対して十念の往生をとけり。これ易行をあらわすことばなり。しかるに成就の文に「一念」といえるは、易行のなかに、なお易行をえらびとるこころなり。そのゆえは『観経義』の第二(序分義)に、「十三定善のほかに三福の諸善をとくことを釈す」として、「若依定行 即摂生不尽 是以如来方便 顕開三福 以応散動根機」といえり。文のこころは、「もし定行によれば、すなわち生を摂するにつきず。ここをもって、如来、方便して三福を顕開して散動の根機に応ず」となり。いうこころは、「『観経』のなかに、定善ばかりをとかば、定機ばかりを摂すべきゆえに、散機の往生をすすめん 紙面画像を印刷 前のページ p864 次のページ 初版p710・711へ このページの先頭に戻る