巻次 第一帖 761頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 ひとをば、ことのほか説諫をくわえ候いて、あるいはなかをたがいなんどせられ候うあいだ、坊主もしかしかと信心の一理をも聴聞せず、また弟子をばかようにあいささえ候うあいだ、われも信心決定せず、弟子も信心決定せずして、一生はむなしくすぎゆくように候うこと、まことに自損損他のとが、のがれがたく候う。あさまし、あさまし。 古歌にいわくうれしさを むかしはそでに つつみけり こよいは身にも あまりぬるかな 「うれしさをむかしはそでにつつむ」といえるこころは、むかしは、雑行・正行の分別もなく、念仏だにももうせば、往生するとばかりおもいつるこころなり。「こよいは身にもあまる」といえるは、正・雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうえに、仏恩報尽のために念仏もうすこころは、おおきに各別なり。かるがゆえに身のおきどころもなく、おどりあがるほどにおもうあいだ、よろこびは、身にもうれしさが、あまりぬるといえるこころなり。あなかしこ、あなかしこ。文明三年七月十五日2 当流、親鸞聖人の一義は、あながちに出家発心のかたちを本とせず、捨家棄欲のすがたを標せず、ただ一念帰命の他力の信心を決定せしむるときは、さらに男女老少をえらばざるものなり。されば、この信をえたるくらいを、『経』には「即得往生 住不退転」(大経)ととき、『釈』には「一念発起 入正定之聚」(論註意)ともいえり。これすなわち不来迎の談、平生業成の義なり。『和讃』にいわく、「弥陀の報土をねがうひ 紙面画像を印刷 前のページ p761 次のページ 第二版p922・923へ このページの先頭に戻る