巻次 第一帖 922頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 行とこそ、かしずきておおせられけり。されば、ちかごろは大坊主分のひとも、われは一流の安心の次第をもしらず、たまたま弟子のなかに、信心の沙汰する在所へゆきて、聴聞し候うひとをば、ことのほか説諫をくわえ候いて、或いはなかをたがいなんどせられ候うあいだ、坊主もしかしかと信心の一理をも聴聞せず、また弟子をば、かようにあいささえ候うあいだ、われも信心決定せず、弟子も信心決定せずして、一生はむなしくすぎゆくように候うこと、まことに自損損他のとが、のがれがたく候う。あさまし、あさまし。 古歌にいわく、うれしさを むかしはそでに つつみけり こよいは身にも あまりぬるかな 「うれしさをむかしはそでにつつむ」といえるこころは、むかしは、雑行・正行の分別もなく、念仏だにももうせば、往生するとばかりおもいつるこころなり。「こよいは身にもあまる」といえるは、正・雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうえに、仏恩報尽のために念仏もうすこころは、おおきに各別なり。かるがゆえに身のおきどころもなく、おどりあがるほどにおもうあいだ、よろこびは、身にもうれしさが、あまりぬるといえるこころなり。あなかしこ、あなかしこ。文明三年七月十五日(二) 当流、親鸞聖人の一義は、あながちに出家発心のかたちを本とせず、捨家棄欲のすがたを標せず、ただ一念帰命の他力の信心を決定せしむるときは、さらに男女老少をえらばざるものな 紙面画像を印刷 前のページ p922 次のページ 初版p760・761へ このページの先頭に戻る