巻次 第一帖 774頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 のこころはただ他力の一心をあらわせるこころなり。されば信心といえるそのすがたはいかようなることぞといえば、まずもろもろの雑行をさしおきて、一向に弥陀如来をたのみたてまつりて、自余の一切の諸神諸仏等にもこころをかけず、一心にもっぱら弥陀に帰命せば、如来は光明をもってその身を摂取してすてたまうべからず。これすなわちわれらが一念の信心決定したるすがたなり。かくのごとくこころえてののちは、弥陀如来の、他力の信心をわれらにあたえたまえる、御恩を報じたてまつる念仏なりとこころうべし。これをもって信心決定したる念仏の行者とはもうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。文明第五 九月下旬比書之云々14 そもそも、当流念仏者のなかにおいて、諸法を誹謗すべからず。まず越中・加賀ならば、立山・白山、そのほか諸山寺なり。越前ならば、平泉寺・豊原寺等なり。されば『経』(大経)にもすでに、「唯除五逆誹謗正法」とこそ、これをいましめられたり。これによりて、念仏者はことに諸宗を謗ずべからざるものなり。また聖道諸宗の学者達も、あながちに念仏者をば謗ずべからずとみえたり。そのいわれは経・釈ともにその文これおおしといえども、まず八宗の祖師龍樹菩薩の『智論』に、ふかくこれをいましめられたり。その文にいわく、「自法愛染故 毀呰他人法 雖持戒行人 不免地獄苦」といえり。かくのごとくの論判分明なるときは、いずれも仏説なり。あやまりて謗ずることなかれ。それみな一宗一宗のことなれば、わがたのまぬばかりにてこそあるべけれ。ことさら当流のなかにおいて、なにの分別もなきもの、他宗をそしること勿体なき次第なり。あいかまえて、あいかまえて、一所の坊主分たるひとは、この成敗をかたくいたすべきものなり。あなかしこ、 紙面画像を印刷 前のページ p774 次のページ 第二版p936・937へ このページの先頭に戻る