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第一帖
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べきなり。その信心というは、『大経』には三信ととき、『観経』には三心といい、『阿弥陀経』には一心とあらわせり。三経ともにその名かわりたりといえども、そのこころはただ他力の一心をあらわせるこころなり。されば信心といえるそのすがたは、いかようなることぞといえば、まずもろもろの雑行をさしおきて、一向に弥陀如来をたのみたてまつりて、自余の一切の諸神・諸仏等にもこころをかけず、一心にもっぱら弥陀に帰命せば、如来は光明をもってその身を摂取してすてたまうべからず。これすなわちわれらが一念の信心決定したるすがたなり。かくのごとくこころえてののちは、弥陀如来の、他力の信心をわれらにあたえたまえる御恩を報じたてまつる念仏なりとこころうべし。これをもって信心決定したる念仏の行者とはもうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

文明第五、九月下旬の比、之を書く云々

(一四) 抑も、当流念仏者のなかにおいて、諸法を誹謗すべからず。まず越中・加賀ならば、立山・白山、そのほか諸山寺なり。越前ならば、平泉寺・豊原寺等なり。されば『経』(大経)にもすでに、「唯除五逆誹謗正法」とこそ、これをいましめられたり。これによりて、念仏者はことに諸宗を謗ずべからざるものなり。また聖道諸宗の学者達も、あながちに念仏者をば謗ずべからずとみえたり。そのいわれは、経・釈ともにその文これおおしといえども、まず八宗の祖師龍樹菩薩の『智論』(大智度論)に、ふかくこれをいましめられたり。その文にいわく、「自法愛染故 毀呰他人法 雖持戒行人 不免地獄苦」といえり。かくのごとくの論判分明なるときは、いずれも仏説な