巻次 第一帖 776頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 その余の仏菩薩等にもこころをかけずして、一向にふたごころなく弥陀を信ずるばかりなり。これをもって信心決定とはもうすものなり。信心といえる二字をばまことのこころとよめるなり。まことのこころというは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆえに、まことのこころとはもうすなり。また名号をもってなにのこころえもなくして、ただとなえてはたすからざるなり。されば、『経』(大経)には、「聞其名号 信心歓喜」ととけり。「その名号をきく」といえるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を、無名無実にきくにあらず。善知識にあいて、そのおしえをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまうという道理なり。これを『経』に「信心歓喜」ととかれたり。これによりて、南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまえるすがたぞと、こころうべきなり。かようにこころえてのちは、行住座臥に口にとなうる称名をば、ただ弥陀如来のたすけまします御恩を、報じたてまつる念仏ぞとこころうべし。これをもって、信心決定して極楽に往生する、他力の念仏の行者とはもうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。文明第五、九月下旬第二日至于巳剋加州山中湯治之内書集之訖 紙面画像を印刷 前のページ p776 次のページ 第二版p938へ このページの先頭に戻る