巻次
第一帖
938頁
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楽に往生すべきよう、くわしくうけたまわりはんべらんとおもうなり。
 答えていわく、当流のおもむきは、信心決定しぬればかならず真実報土の往生をとぐべきなり。さればその信心というはいかようなることぞといえば、なにのわずらいもなく、弥陀如来を一心にたのみたてまつりて、その余の仏・菩薩等にもこころをかけずして、一向にふたごころなく弥陀を信ずるばかりなり。これをもって信心決定とはもうすものなり。信心といえる二字をば、まことのこころとよめるなり。まことのこころというは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆえに、まことのこころとはもうすなり。また名号をもってなにのこころえもなくして、ただとなえてはたすからざるなり。されば、『経』(大経)には、「聞其名号信心歓喜」ととけり。「その名号をきく」といえるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を、無名無実にきくにあらず。善知識にあいて、そのおしえをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまうという道理なり。これを『経』に「信心歓喜」ととかれたり。これによりて、南無阿弥陀仏の体はわれらをたすけたまえるすがたぞとこころうべきなり。かようにこころえてのちは、行住座臥に口にとなうる称名をば、ただ弥陀如来のたすけまします御恩を報じたてまつる念仏ぞとこころうべし。これをもって、信心決定して極楽に往生する、他力の念仏の行者とはもうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

文明第五、九月下旬第二日、巳の剋に至りて、加州山中湯治の内に之を書き集め訖りぬ。