巻次
第二帖
783頁
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きは、昼夜朝暮は、如来大悲の御恩を雨山にこうぶりたるわれらなれば、ただ口につねに称名をとなえて、かの仏恩を報謝のために、念仏をもうすべきばかりなり。これすなわち真実信心をえたるすがたといえるはこれなり。あなかしこ、あなかしこ。

文明六 二月十五日夜、大聖世尊入滅の昔をおもいいでて、於燈下 拭老眼 染筆畢

満六十御判

5 そもそも、この三四年のあいだにおいて、当山の念仏者の風情をみおよぶに、まことにもって他力の安心決定せしめたる分なし。そのゆえは、珠数の一連をももつひとなし。さるほどに仏をば手づかみにこそせられたり。聖人、まったく、珠数をすてて仏をおがめとおおせられたることなし。さりながら、珠数をもたずとも、往生浄土のためには、ただ他力の信心ひとつばかりなり。それにはさわりあるべからず。まず大坊主分たるひとは、袈裟をもかけ、珠数をもちても子細なし。これによりて真実信心を獲得したるひとは、かならず口にもいだし、またいろにもそのすがたはみゆるなり。しかれば、当時は、さらに真実信心をうつくしくえたるひと、いたりてまれなりとおぼゆるなり。それはいかんぞなれば、弥陀如来の本願の、われらがために相応したるとうとさのほども、身にはおぼえざるがゆえに、いつも信心のひととおりをばわれこころえがおのよしにて、なにごとを聴聞するにも、そのこととばかりおもいて、耳へもしかしかともいらず、ただひとまねばかりの体たらくなりとみえたり。この分にては、自身の往生極楽も、いまはいかがとあやうくおぼゆるなり。いわんや門徒同朋を勧化の儀も、なかなかこれあるべからず。かくのごときの心中にては、今度の報土往生も不可なり。