巻次
第二帖
945頁
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 答えていわく、末代今時の衆生は、ただ一すじに弥陀如来をたのみたてまつりて、余の仏・菩薩等をもならべて信ぜねども、一心一向に弥陀一仏に帰命する衆生をば、いかにつみふかくとも、仏の大慈大悲をもって、すくわんとちかいたまいて、大光明をはなちて、その光明のうちにおさめとりましますゆえに、このこころを『経』(観経)には、「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」とときたまえり。されば、五道・六道といえる悪趣に、すでにおもむくべきみちを、弥陀如来の願力の不思議として、これをふさぎたまうなり。このいわれをまた『経』(大経)には「横截五悪趣 悪趣自然閉」ととかれたり。かるがゆえに、如来の誓願を信じて一念の疑心なきときは、いかに地獄へおちんとおもうとも、弥陀如来の摂取の光明におさめとられまいらせたらん身は、わがはからいにて地獄へもおちずして、極楽にまいるべき身なるがゆえなり。かようの道理なるときは、昼夜朝暮は、如来大悲の御恩を雨山にこうぶりたるわれらなれば、ただ口につねに称名をとなえて、かの仏恩を報謝のために念仏をもうすべきばかりなり。これすなわち真実信心をえたるすがたといえるはこれなり。あなかしこ、あなかしこ。

文明六、二月十五日の夜、大聖世尊入滅の昔をおもいいでて、燈の下に於いて老眼を拭い筆を染め畢りぬ。

満六十御判

(五) 抑も、此の三、四年のあいだにおいて、当山の念仏者の風情をみおよぶに、まことにもって他