巻次
第二帖
793頁
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とにかたりあらわすべきものなり。そもそも当流勧化のおもむきをくわしくしりて、極楽に往生せんとおもわんひとは、まず他力の信心ということを存知すべきなり。それ他力の信心というはなにの要ぞといえば、かかるあさましきわれらごときの凡夫の身が、たやすく浄土へまいるべき用意なり。その他力の信心のすがたというはいかなることぞといえば、なにのようもなく、ただひとすじに阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまえとおもうこころの一念おこるとき、かならず、弥陀如来の、摂取の光明をはなちて、その身の娑婆にあらんほどは、この光明のなかにおさめおきましますなり。これすなわち、われらが往生のさだまりたるすがたなり。されば、南無阿弥陀仏ともうす体は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。この信心というは、この南無阿弥陀仏のいわれをあらわせるすがたなりとこころうべきなり。されば、われらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、極楽にやすく往生すべきことの、さらになにのうたがいもなし。あら、殊勝の弥陀如来の他力の本願や。このありがたさの弥陀の御恩をば、いかがして報じたてまつるべきぞなれば、ただ、ねてもおきても、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ととなえて、かの弥陀如来の仏恩を報ずべきなり。されば、南無阿弥陀仏ととなうるこころはいかんぞなれば、阿弥陀如来の御たすけありつることの、ありがたさ、とうとさよとおもいて、それをよろこびもうすこころなりとおもうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

文明六年七月五日

15 そもそも、日本において、浄土宗の家々をたてて、西山・鎮西・九品・長楽寺とて、そのほかあまたにわかれたり。これすなわち法然聖人のすすめたまうところの義は一途なりといえども、あるいは聖道門にてあり