巻次 第二帖 956頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 信心にあらず、弥陀如来他力の大信心ということは、いまこそあきらかにしられたり。これによりて、かたじけなくも、ひとたび他力の信心をえたらんひとは、みな弥陀如来の御恩のありがたきほどを、よくよくおもいはかりて、仏恩報謝のためには、つねに称名念仏をもうしたてまつるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。文明六年七月三日、之を書く。(一四) 夫れ、越前の国にひろまるところの秘事法門といえることは、さらに仏法にてはなし。あさましき外道の法なり。これを信ずるものは、ながく無間地獄にしずむべき業にて、いたずらごとなり。この秘事をなおも執心して、簡要とおもいて、ひとをへつらいたらさんものには、あいかまえて、あいかまえて、随逐すべからず。いそぎその秘事をいわんひとの手をはなれて、はやくさずくるところの秘事をありのままに懺悔して、ひとにかたりあらわすべきものなり。そもそも、当流勧化のおもむきをくわしくしりて、極楽に往生せんとおもわんひとは、まず他力の信心ということを存知すべきなり。それ、他力の信心というはなにの要ぞといえば、かかるあさましきわれらごときの凡夫の身が、たやすく浄土へまいるべき用意なり。その他力の信心のすがたというは、いかなることぞといえば、なにのようもなく、ただひとすじに阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまえとおもうこころの一念おこるとき、かならず弥陀如来の、摂取の光明をはなちて、その身の娑婆にあらんほどは、この光明のなかにおさめおきましますなり。これすなわち、われらが往生のさ 紙面画像を印刷 前のページ p956 次のページ 初版p792・793へ このページの先頭に戻る