巻次
第二帖
957頁
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だまりたるすがたなり。されば、南無阿弥陀仏ともうす体は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。この信心というは、この南無阿弥陀仏のいわれをあらわせるすがたなりとこころうべきなり。されば、われらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、極楽にやすく往生すべきことの、さらになにのうたがいもなし。あら、殊勝の弥陀如来の他力の本願や。このありがたさの弥陀の御恩をば、いかがして報じたてまつるべきぞなれば、ただねてもおきても、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ととなえて、かの弥陀如来の仏恩を報ずべきなり。されば、南無阿弥陀仏ととなうるこころはいかんぞなれば、阿弥陀如来の御たすけありつることの、ありがたさ、とうとさよとおもいて、それをよろこびもうすこころなりとおもうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

文明六年七月五日

(一五) 抑も、日本において、浄土宗の家々をたてて、西山・鎮西・九品・長楽寺とて、そのほかあまたにわかれたり。これすなわち法然聖人のすすめたまうところの義は一途なりといえども、あるいは聖道門にてありしひとびとの、聖人(法然)へまいりて浄土の法門聴聞したまうに、うつくしくその理、耳にとどまらざるによりて、わが本宗のこころをいまだすてやらずして、かえりてそれを浄土宗にひきいれんとせしによりて、その不同これあり。しかりといえども、あながちにこれを誹謗することあるべからず。肝要は、ただわが一宗の安心をよくたくわえて、自身も決定し、ひとをも勧化すべきばかりなり。