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第二帖 | 第三帖
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かように信心決定してのうえには、ただ弥陀如来の仏恩を、かたじけなき事を、つねにおもいて、称名念仏を申さば、それこそまことに弥陀如来の仏恩を報じたてまつることわりにかなうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

文明六 七月九日書之


第三帖


1 そもそも、当流において、その名ばかりをかけんともがらも、またもとより門徒たらんひとも、安心のとおりをよくこころえずは、あいかまえて、今日よりして他力の大信心のおもむきを、ねんごろにひとにあいたずねて、報土往生を決定せしむべきなり。それ、一流の安心をとるというも、なにのようもなく、ただひとすじに阿弥陀如来をふかくたのみたてまつるばかりなり。しかれども、この阿弥陀仏ともうすは、いかようなるほとけぞ、また、いかようなる機の衆生をすくいたまうぞというに、三世の諸仏にすてられたる、あさましきわれら凡夫女人を、われひとりすくわんという大願をおこしたまいて、五劫があいだこれを思惟し、永劫があいだこれを修行して、それ、衆生のつみにおいては、いかなる十悪・五逆・謗法・闡提のともがらなりというとも、すくわんとちかいましまして、すでに諸仏の悲願にこえすぐれたまいて、その願成就して阿弥陀如来とはならせたまえるを、すなわち阿弥陀仏とはもうすなり。これによりて、このほとけをばなにとたのみ、なに