巻次 第三帖 796頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 とこころをももちてかたすけたまうべきぞというに、それ、わが身のつみのふかきことをばうちおきて、ただかの阿弥陀仏を、ふたごころなく一向にたのみまいらせて、一念もうたがうこころなくは、かならずたすけたまうべし。しかるに、弥陀如来には、すでに摂取と光明というふたつのことわりをもって、衆生をば済度したまうなり。まずこの光明に、宿善の機ありててらされぬれば、つもるところの業障のつみみなきえぬるなり。さて摂取というはいかなるこころぞといえば、この光明の縁にあいたてまつれば、罪障ことごとく消滅するによりて、やがて衆生を、この光明のうちにおさめおかるるによりて、摂取とはもうすなり。このゆえに、阿弥陀仏には、摂取と光明とのふたつをもって肝要とせらるるなりときこえたり。されば、一念帰命の信心のさだまるというも、この摂取の光明にあいたてまつる時剋をさして、信心のさだまるとはもうすなり。しかれば南無阿弥陀仏といえる行体は、すなわちわれらが浄土に往生すべきことわりを、この六字にあらわしたまえる御すがたなりと、いまこそよくはしられて、いよいよありがたくとうとくおぼえはんべれ。さてこの信心決定のうえには、ただ阿弥陀如来の御恩を雨山にこうぶりたることをのみ、よろこびおもい奉りて、その報謝のためには、ねてもさめても、念仏を申すべきばかりなり。それこそ誠に仏恩報尽のつとめなるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。文明六 七月十四日書之2 それ諸宗のこころまちまちにして、いずれも釈迦一代の説教なれば、まことにこれ殊勝の法なり。もっとも如説にこれを修行せんひとは、成仏得道すべきことさらにうたがいなし。しかるに、末代このごろの衆生は、 紙面画像を印刷 前のページ p796 次のページ 第二版p959・960へ このページの先頭に戻る