巻次
第三帖
797頁
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機根最劣にして、如説に修行せんひとまれなる時節なり。ここに弥陀如来の他力本願というは、いまの世において、かかるときの衆生をむねとたすけすくわんがために、五劫があいだこれを思惟し、永劫があいだこれを修行して、造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚ならじとちかごとをたてましまして、その願すでに成就して、阿弥陀とならせたまえるほとけなり。末代いまのときの衆生においては、このほとけの本願にすがりて、弥陀をふかくたのみたてまつらずんば、成仏するということあるべからざるなり。
 そもそも、阿弥陀如来の他力本願をば、なにとように信じ、またなにとように機をもちてかたすかるべきぞなれば、それ、弥陀を信じたてまつるというは、なにのようもなく、他力の信心といういわれをよくしりたらんひとは、たとえば十人は十人ながら、みなもって極楽に往生すべし。さてその他力の信心というは、いかようなることぞといえば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくわしくしりたるが、すなわち他力信心のすがたなり。されば、南無阿弥陀仏という六字の体をよくよくこころうべし。まず「南無」という二字はいかなるこころぞといえば、ようもなく、弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、後生たすけたまえとふたごころなく信じまいらするこころを、すなわち「南無」とはもうすなり。つぎに「阿弥陀仏」という四字はいかなるこころぞといえば、いまのごとくに弥陀を一心にたのみまいらせて、うたがいのこころのなき衆生をば、かならず、弥陀の御身より光明をはなちててらしましまして、そのひかりのうちにおさめおきたまいて、さて、一期のいのちつきぬれば、かの極楽浄土へおくりたまえるこころを、すなわち「阿弥陀仏」とはもうしたてまつるなり。されば、世間に沙汰するところの念仏というは、ただくちにだにも南無阿弥