巻次
第三帖
960頁
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ずたすけたまうべし。しかるに、弥陀如来には、すでに摂取と光明というふたつのことわりをもって、衆生をば済度したまうなり。まずこの光明に、宿善の機のありててらされぬれば、つもるところの業障のつみ、みなきえぬるなり。さて摂取というはいかなるこころぞといえば、この光明の縁にあいたてまつれば、罪障ことごとく消滅するによりて、やがて衆生を、この光明のうちにおさめおかるるによりて、摂取とはもうすなり。このゆえに、阿弥陀仏には、摂取と光明とのふたつをもって肝要とせらるるなりときこえたり。されば、一念帰命の信心のさだまるというも、この摂取の光明にあいたてまつる時剋をさして、信心のさだまるとはもうすなり。しかれば南無阿弥陀仏といえる行体は、すなわちわれらが浄土に往生すべきことわりを、この六字にあらわしたまえる御すがたなりと、いまこそ、よくはしられて、いよいよありがたく、とうとくおぼえはんべれ。さてこの信心決定のうえには、ただ阿弥陀如来の御恩を雨山にこうぶりたることをのみ、よろこびおもい奉りて、その報謝のためには、ねてもさめても、念仏を申すべきばかりなり。それこそ誠に仏恩報尽のつとめなるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

文明六、七月十四日、之を書く。

(二) 夫れ、諸宗のこころまちまちにして、いずれも釈迦一代の説教なれば、まことにこれ殊勝の法なり。もっとも如説にこれを修行せんひとは、成仏得道すべきこと、さらにうたがいなし。しかるに、末代このごろの衆生は、機根最劣にして、如説に修行せんひとまれなる時節なり。ここに弥