巻次
第三帖
961頁
表示設定
ブックマーク
表示設定
文字サイズ
書体
  • ゴシック
  • 明朝
カラー
テキスト情報
本文
画像情報
画像情報
本文

陀如来の他力本願というは、いまの世において、かかるときの衆生をむねとたすけすくわんがために、五劫があいだこれを思惟し、永劫があいだこれを修行して、「造悪不善の衆生をほとけになさずは、われも正覚ならじ」とちかごとをたてましまして、その願すでに成就して、阿弥陀とならせたまえるほとけなり。末代いまのときの衆生においては、このほとけの本願にすがりて、弥陀をふかくたのみたてまつらずんば、成仏するということあるべからざるなり。
 抑も、阿弥陀如来の他力本願をば、なにとように信じ、またなにとように機をもちてか、たすかるべきぞなれば、それ、弥陀を信じたてまつるというは、なにのようもなく、他力の信心といういわれをよくしりたらんひとは、たとえば十人は十人ながら、みなもって極楽に往生すべし。さてその他力の信心というは、いかようなることぞといえば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくわしくしりたるが、すなわち他力信心のすがたなり。されば、南無阿弥陀仏という六字の体をよくよくこころうべし。まず南無という二字はいかなるこころぞといえば、ようもなく、弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、後生たすけたまえとふたごころなく信じまいらするこころを、すなわち南無とはもうすなり。つぎに阿弥陀仏という四字はいかなるこころぞといえば、いまのごとくに弥陀を一心にたのみまいらせて、うたがいのこころのなき衆生をば、かならず弥陀の御身より光明をはなちててらしましまして、そのひかりのうちにおさめおきたまいて、さて、一期のいのちつきぬれば、かの極楽浄土へおくりたまえるこころを、すなわち阿弥陀仏とはもうしたて