巻次 第三帖 962頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 まつるなり。されば、世間に沙汰するところの念仏というは、ただくちにだにも南無阿弥陀仏ととなうれば、たすかるようにみなひとのおもえり。それはおぼつかなきことなり。さりながら、浄土一家においてさように沙汰するかたもあり。是非すべからず。これはわが一宗の開山のすすめたまえるところの、一流の安心のとおりをもうすばかりなり。宿縁のあらんひとは、これをききて、すみやかに今度の極楽往生をとぐべし。かくのごとくこころえたらんひと、名号をとなえて、弥陀如来の、われらをやすくたすけたまえる御恩を、雨山にこうぶりたる、その仏恩報尽のためには、称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。文明六年八月五日、之を書く。(三) 此の方、河尻性光門徒の面々において、仏法の信心のこころえはいかようなるらん。まことにもってこころもとなし。しかりといえども、いま当流一義のこころをくわしく沙汰すべし。おのおの耳をそばだててこれをききて、このおもむきをもって本とおもいて、今度の極楽の往生を治定すべきものなり。 夫れ、弥陀如来の念仏往生の本願ともうすは、いかようなることぞというに、在家無智のものも、また十悪五逆のやからにいたるまでも、なにのようもなく、他力の信心ということをひとつ決定すれば、みなことごとく極楽に往生するなり。さればその信心をとるというは、いかようなるむつかしきことぞというに、なにのわずらいもなく、ただひとすじに、阿弥陀如来をふたごころなくたの 紙面画像を印刷 前のページ p962 次のページ 初版p797・798へ このページの先頭に戻る