巻次
第三帖
963頁
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みたてまつりて、余へこころをちらさざらんひとは、たとえば十人あらば十人ながら、みなほとけになるべし。このこころひとつをたもたんは、やすきことなり。ただこえにいだして念仏ばかりをとなうるひとは、おおようなり。それは極楽には往生せず。この念仏のいわれをよくしりたるひとこそ、ほとけにはなるべけれ。なにのようもなく、弥陀をよく信ずるこころだにも、ひとつにさだまれば、やすく浄土へはまいるべきなり。このほかには、わずらわしき秘事といいて、ほとけをもおがまぬものはいたずらものなりとおもうべし。これによりて、阿弥陀如来の他力本願ともうすは、すでに末代いまのときの、つみふかき機を本としてすくいたまうがゆえに、在家止住のわれらごときのためには相応したる他力の本願なり。あら、ありがたの弥陀如来の誓願や。あら、ありがたの釈迦如来の金言や。あおぐべし、信ずべし。しかれば、いうところのごとくこころえたらんひとびとは、これまことに当流の信心を決定したる念仏行者のすがたなるべし。さて、このうえには、一期のあいだもうす念仏のこころは、弥陀如来のわれらをやすくたすけたまえるところの、雨山の御恩を報じたてまつらんがための念仏なりとおもうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

文明六年八月六日、之を書く。

(四) 夫れ、倩つら人間のあだなる体を案ずるに、生あるものはかならず死に帰し、さかんなるものはついにおとろうるならいなり。さればただいたずらにあかし、いたずらにくらして、年月をおくるばかりなり。これまことになげきても、なおかなしむべし。このゆえに、上は大聖世尊よりはじめ