巻次
第三帖
964頁
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て、下は悪逆の提婆にいたるまで、のがれがたきは無常なり。しかれば、まれにも、うけがたきは人身、あいがたきは仏法なり。たまたま仏法にあうことをえたりというとも、自力修行の門は、末代なれば、いまのときは出離生死のみちはかないがたきあいだ、弥陀如来の本願にあいたてまつらずは、いたずらごとなり。しかるにいますでに、われら弘願の一法にあうことをえたり。このゆえに、ただねがうべきは極楽浄土、ただたのむべきは弥陀如来、これによりて信心決定して念仏もうすべきなり。しかれば、世のなかに、ひとのあまねくこころえおきたるとおりは、ただこえにいだして南無阿弥陀仏とばかりとなうれば、極楽に往生すべきようにおもいはんべり。それはおおきにおぼつかなきことなり。されば、南無阿弥陀仏ともうす六字の体は、いかなるこころぞというに、阿弥陀如来を一向にたのめば、ほとけ、その衆生をよくしろしめして、すくいたまえる御すがたを、この南無阿弥陀仏の六字にあらわしたまうなりとおもうべきなり。しかれば、この阿弥陀如来をば、いかがして信じまいらせて、後生の一大事をばたすかるべきぞなれば、なにのわずらいもなく、もろもろの雑行雑善をなげすてて、一心一向に弥陀如来をたのみまいらせて、ふたごころなく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を、光明をはなちて、そのひかりのなかにおさめいれおきたまうなり。これをすなわち、弥陀如来の摂取の光益にあずかるとはもうすなり。または、不捨の誓益ともこれをなづくるなり。かくのごとく、阿弥陀如来の光明のうちにおさめおかれまいらせてのうえには、一期のいのちつきなば、ただちに真実の報土に往生すべきこと、そのうたがいあるべからず。このほかに