巻次
第三帖
965頁
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は、別の仏をもたのみ、また余の功徳善根を修しても、なににかはせん。あら、とうとや、あら、ありがたの阿弥陀如来や。かようの雨山の御恩をば、いかがして報じたてまつるべきぞや。ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、こえにとなえて、その恩徳をふかく報尽もうすばかりなりとこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

文明六年八月十八日

(五) 抑も、諸仏の悲願に弥陀の本願のすぐれましましたる、そのいわれをくわしくたずぬるに、すでに十方の諸仏ともうすは、いたりてつみふかき衆生と、五障三従の女人をば、たすけたまわざるなり。このゆえに、諸仏の願に阿弥陀仏の本願はすぐれたりともうすなり。さて弥陀如来の超世の大願は、いかなる機の衆生をすくいましますぞともうせば、十悪五逆の罪人も、五障三従の女人にいたるまでも、みなことごとく、もらさずたすけたまえる大願なり。されば一心一向にわれをたのまん衆生をば、かならず十人あらば十人ながら極楽へ引接せんとのたまえる、他力の大誓願力なり。これによりて、かの阿弥陀仏の本願をば、われらごときのあさましき凡夫は、なにとようにたのみ、なにとように機をもちて、かの弥陀をばたのみまいらすべきぞや。そのいわれをくわしくしめしたまうべし。そのおしえのごとく信心をとりて、弥陀をも信じ、極楽をもねがい、念仏をももうすべきなり。
 こたえていわく、まず世間にいま流布してむねとすすむるところの念仏ともうすは、ただなにの分