巻次
第三帖
966頁
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別もなく、南無阿弥陀仏とばかりとなうれば、みなたすかるべきようにおもえり。それはおおきにおぼつかなきことなり。京・田舎のあいだにおいて、浄土宗の流義まちまちにわかれたり。しかれども、それを是非するにはあらず。ただわが開山の一流相伝のおもむきをもうしひらくべし。それ、解脱の耳をすまして、渇仰のこうべをうなだれて、これをねんごろにききて、信心歓喜のおもいをなすべし。
 それ、在家止住のやから、一生造悪のものも、ただわが身のつみのふかきには目をかけずして、それ、弥陀如来の本願ともうすは、かかるあさましき機を本とすくいまします、不思議の願力ぞとふかく信じて、弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、他力の信心ということをひとつこころうべし。さて他力の信心という体は、いかなるこころぞというに、この南無阿弥陀仏の六字の名号の体は、阿弥陀仏の、われらをたすけたまえるいわれを、この南無阿弥陀仏の名号にあらわしましましたる御すがたぞと、くわしくこころえわけたるをもって、他力の信心をえたる人とはいうなり。この南無という二字は、衆生の、阿弥陀仏を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまえとおもいて、余念なきこころを帰命とはいうなり。つぎに阿弥陀仏という四つの字は、南無とたのむ衆生を、阿弥陀仏の、もらさずすくいたまうこころなり。このこころをすなわち摂取不捨とはもうすなり。摂取不捨というは、念仏の行者を弥陀如来の光明のなかにおさめとりてすてたまわずといえるこころなり。されば、この南無阿弥陀仏の体は、われらを阿弥陀仏のたすけたまえる支証のために、御名を、こ