巻次
第三帖
967頁
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の南無阿弥陀仏の六字にあらわしたまえるなりときこえたり。かくのごとくこころえわけぬれば、われらが極楽の往生は治定なり。あら、ありがたや、とうとやとおもいて、このうえには、はや、ひとたび弥陀如来にたすけられまいらせつるのちなれば、御たすけありつる御うれしさの念仏なれば、この念仏をば、仏恩報謝の称名ともいい、また信のうえの称名とももうしはんべるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

文明六年九月六日、之を書く。

(六) 夫れ、南無阿弥陀仏ともうすは、いかなるこころぞなれば、まず、南無という二字は、帰命と発願回向とのふたつのこころなり。また、南無というは願なり。阿弥陀仏というは行なり。されば雑行雑善をなげすてて、専修専念に弥陀如来をたのみたてまつりて、たすけたまえとおもう帰命の一念おこるとき、かたじけなくも遍照の光明をはなちて、行者を摂取したまうなり。このこころすなわち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。また発願回向のこころなり。これによりて、南無阿弥陀仏という六字は、ひとえに、われらが往生すべき他力信心のいわれをあらわしたまえる御名なりとみえたり。このゆえに、願成就の文には、「聞其名号信心歓喜」(大経)ととかれたり。この文のこころは、その名号をききて信心歓喜すといえり。その名号をきくというは、ただおおようにきくにあらず。善知識にあいて、南無阿弥陀仏の六つの字のいわれを、よくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり。かるがゆえに、信心歓喜というは、すなわち信